人は感情で検査する

%e6%84%9f%e6%83%85%e6%a4%9c%e6%9f%bb

目視検査は感覚的であるがゆえ自動化が難しいといわれる。さらに進んだ言い方をすれば目視検査は感情的である。目視検査員は「流出させたくない」と考えるため、手で角度を変えて見えるようにしてみる、見なくてもいいものも見る、さらに「なんとなく」と見えないものを見ることさえある。そのため必ず過剰品質になり、良品レベルでも破棄している。一方、目視対象物のほとんどが良品であり、たまにしか不良品は発生しない。そのため集中力を持続させることは非常に困難であり、とんでもない不良品の見逃しが時として発生する。とんでもない不良品の見逃しが発生すると検査仕様書を強化し、さらに管理を厳しくし、さらに過剰品質になる。しかし、人間がする作業ゆえゼロにすることは難しい。このように目視検査は見逃しと過剰品質の原因と考えることができる。

そもそも日本品質とは何かを考えたい。世界に誇る日本の品質は、性能が高いこと、気の利いた機能をもつこと、壊れにくいこと、さらには個体差がないことではないだろうか。「どこから見ても傷ひとつない」ことはどの程度求められているだろうか。日本人なら気にする人もいるかもしれない。しかしグローバルで考えた場合、傷ひとつないが高コスト、多少の傷があっても低コスト、どちらが求められているかは明白である。

海外でのモノづくりを考えてみる。海外の現場は「日本人ほど几帳面でない」ことを自覚している。最初から目視検査なんか信用していない。それゆえ弱点を補強するために積極的に検査装置の導入を進める可能性が高い。多少検出能力が劣ったとしても「几帳面でない」ため、見にくいものは検出できなくていいと割り切る。そもそもクレームはクレームになるような不良品を、クレームだと感じる人が受け取ってはじめて発生する。受け取る側も「几帳面でない」とクレームは発生しない。よって簡単にクレームゼロは実現される。また見にくい欠陥は検出されないため良品率も上がる。「目視検査?もう要らないよ」となり、さらに検査装置の導入は加速する。

日本の現場はどうか。検査装置導入の必要性は感じているものの、「やってみたけど、うまくいかなかった」「目視検査と同じ能力がないと使えない」と導入は進まない。そして海外で目視検査を行おうとするが、そこには日本人はいない。同じ品質基準を持ち込んでも「なぜこれが不良なんだ」と理解してもらえない。目視検査員が定着しない理由は賃金の問題だけではないのではないか。

グローバルな価値観に対応した外観基準は目視検査では対応できない。このままでは日本のモノづくりは製造効率も品質もコストも太刀打ちできなくなる

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です